Maybe
滝沢歌舞伎ZERO発売おめでとうございます!
一通り観てみたけれど、ずっとずっと観てきた滝沢歌舞伎にSnow Manの名前がいちばんにあること、大好きなさくまくんが最前に立っていること、全てが嬉しい...
現場に入った2019年春は増員によってSnow Manから離れていたため、最低のモチベーションの中で観に行ったことを覚えている。
もう、さくまくんを応援するのは苦しくなるからやめよう、と思っていたけれど、「ひらりと桜」で力強く踊るさくまくんを観て、さくまくんについて行きたい...そう強く思えた。
一度Snow Manから離れた私は2020年3月にSnow Manの佐久間大介担に戻り、今に至る。ZEROのさくまくんと出会わなければあっさりと担降りし、今のSnow Manを見守ることができなかっただろうな。
時間がかかってでもさくまくんをSnow Manを追い続けたい、と思えた私にとって大切な作品がこうして映像に残ることが本当に幸せだなあ...
滝沢歌舞伎ZEROのさくまくんについて語りたいことは山ほどあるけれど、今回はMaybeを語ろうと思う。
映像も素敵だけど、全体像や解釈が見えるともっと楽しめるかな〜と思うのよね。
あくまで、佐久間担視点の感想や解釈だけど、もっとMaybeを知りたい!という方に少しでもお役に立てれば...(^^)ただ、個人の解釈だし、ほぼさくまくんのことしか語っていないのでその点だけ理解していただけると嬉しいです。
滝沢歌舞伎ZEROのMaybeを演舞場で観て、"Maybeは終わった"と思った。
これは悪い意味ではなくて、V6のOMGから健くんがさらに解釈を広げ、歌舞伎2016.2017と表現してきたMaybeが終わり、新たなMaybeの始まりを意味しているということ。
それくらい、今までのMaybeとは解釈が違うように感じた。
V6のしっとりとした大人な、そして2013の彼らを象徴的に現すMaybe
2016は力強く険しい中に儚さのあるMaybe
2017は苦しみの消えた柔らかいMaybe
ZEROは執着と苦しみに支配されたMaybe
2017の光の差し込むようなMaybeは消えた、そう思うくらいもがき苦しむZERO。だからといって2016の苦しみとは違う。
ああわかった、Maybeは2017で終わっていた、いや、完結していたんだ、そう思った。
私とMaybeの出会いは2013年Oh!My!Goodness!から始まる。
衝撃だった。
メンバーもプロデュースに参加したOh!My!Goodness!(以下OMG)
森田剛は天才か?(※Maybeのプロデュースは剛くん)
シンプルなメロディーに合わさる6人の歌声が切なさを加速させる。愛しい人に想いを募らせると世界はこんなにも色づいて見える。
セピアなようで6人の息遣いが伝わる色彩があるし、オートチューンなことでどこか神秘的な雰囲気がある。
これほどたまらなく"会いたい"と思える
(なおこの歌詞は剛くん作詞)
等身大の大人のラブソングはこんなにも美しい。
OMGのライブも素晴らしい世界観だった。楽曲に合わせたシンプルなパフォーマンス。
井ノ原くんのギターに合わせて踊る5人。
私の座席は長野くんが目の前だったのだが、ステップの足音が客席にまではっきりと聞こえてきた。Maybeはしっとりとした大人なラブソングでありつつ、激しく葛藤する感情を内に秘めている。Maybeの解釈が広がった瞬間だった。
(長野くんのダンスは元からパワフルだけどね)
井ノ原くんがMaybeを語った際に、「Maybeは自分が見てきたV6が象徴的に見れた」と言っていた。ギターを持つ井ノ原くんの目の前で余計なものを削ぎ落としたシンプルなパフォーマンスをする5人。"V6はシンプルで戦う強さがある" その当時私がV6に感じていたものが、そこにはあった。そして、メンバーも同じように感じていた。その事実に震え、Maybeという楽曲はラブソングであるのと同時に、私にとってV6を象徴する1曲となった。
時が経ち、2016年。
三宅健くんが歌舞伎に出演する。
健くんはどんな姿を滝沢歌舞伎で見せてくれるのか、期待に胸を膨らませた。
滝沢歌舞伎2016初日
Maybeのイントロが流れた瞬間客席がざわつき、悲鳴も出ていた。
衝撃でほぼ記憶がない。
森田剛のプロデュース曲を三宅健が滝沢歌舞伎で披露する...いやいや...そんな夢のようなことがあるか...
しかも自担がそのMaybeのバックにいる...
公演後私はMaybeの世界にどっぷりだった。
Maybeはイントロとアウトロで繋がる印象がある。エンドレスリピートする中で、いつの間にか曲の最初に戻る。
V6のMaybeはこのMaybeの世界の繰り返しを感じさせる余韻があった。この余韻が大好きで、V6の表現の幅広さを感じていた。シンプルな中にある彼らのブレないこだわりが直に伝わってくる。
けれど、滝沢歌舞伎のMaybeは違う。
その瞬間のMaybeに全てが詰まっている。Maybeは戻らない。
3人はステージの上で情熱的に感情を爆発させる。
手話を用いた振り付けは人間らしい美しく生々しい感情が垣間見える。いつも思うけれど、健くんの手話ってなんでこんなにも優しいのだろう。優しくありつつ荒々しい感情が伝わる健くんのパフォーマンスは、確実に三宅健が滝沢歌舞伎に立っているという事実を直に伝えてきた。
バックのさくまくんと林くんも本当に素敵だった。
さくまくんは男性的で力強くて険しい表情。私はあんなに苦しんで強く踊るさくまくんを初めて観た気がする。さくまくんを観て、"美しい"と感じるのが滝沢歌舞伎の醍醐味であったが、さくまくんのMaybeは"かっこいい"その一言に尽きる。
林くんのMaybeは柔らかく、どちらかといえば女性的。自我を抑えつつ、感情を解き放つ林くんらしいパフォーマンスだった。"しなやか"とは林くんのためにある言葉なのかもしれない。
健くんのバックで踊る2人は対照的で、健くんの優しさ美しさ生々しさ荒々しさを2人がそれぞれ等分に引き受けているかのようにも見える。同じ振り付けでも3人の解釈が違うように見えて、でもどこかしっかりとはまる感覚がそこにはあった。
公演後にV6のMaybeを聴くたびに、あれ、こんなに優しい曲だっけ...と我に返る。この瞬間がたまらない。
私はMaybeの世界に迷い込んでしまった。
2017年滝沢歌舞伎
Maybeは続く。
Maybeの世界に迷い込んだ私は新たなMaybeを目にする。
さくまくんの表情が本当に優しいのだ。
2016年あんなに険しい表情だった彼は何処へ?それくらい柔らかな雰囲気だった。
はやしくんを観ると、素晴らしく凛々しい表情だ。バキバキに踊り、いつものはやしくんの印象と違う。
2017のMaybeはこの違いがたまらなかった。
いつもはさくまくんがばきばきで激しく踊り、林くんは柔らかく優しく踊る。でも、2017のMaybeは逆なのだ。
そして、健くんは驚くほどに切ない表情。昨年の荒々しさは薄まり、健くんの踊る姿を見るだけで自然に涙が出そうだった。
きっと、それぞれの中での解釈が変わったんだろうな。そんな新たな解釈のMaybeも大好きになった。
回を重ねるごとにさくまくんの表情がさらに柔らかくなる。さくまくんが表現するMaybeは「光」を増していく。
2017のMaybeには未来に続く希望があった。さくまくんは曲の解釈が深まるとこんなにもパフォーマンスの幅が広まるのか..."表現者"佐久間大介はいつだって私の世界一だ。
そういえば、さくまくんがすの日常で「去年は踊るというより演じるに近い気持ちでやってたんだけど、2年目の今回はいかに楽しみながら踊れるか、自分の気持ちの思うままに踊ってました」と語っていて、そのとき私の全てが繋がったことも思い出した。
"同じMaybeなのに異なるMaybe"
私は全てのMaybeを抱きしめ、反芻する日々を送ることになる。
2019滝沢歌舞伎ZERO
どうやら、演舞場では今年もMaybeを観ることができるらしい。そんなことを耳にする。
MaybeとはあのMaybe?
期待と不安が入り混じる。
ZEROのさくまくんは真っ黒の衣装に身を包み、ステージ上に現れた。椅子を用いた柔らかい動きと苦しみの表情のアンバランスさに心惹かれる。椅子に座ったさくまくんは背中を丸め、どこか悲しそう。
曲が進むにつれて動きが激しくなる。何かにもがき苦しんでいるような、でもどこか冷静さも同居しているような...
「黒は光を吸収する」
果たして、その光は希望の光だけなのだろうか。
ときに負の感情から放った光も"黒"は吸収してしまう。そして希望の光でさえも"黒"に変えてしまう。"黒"はそんな恐ろしい色だということをその瞬間に思い出した。
全てを受け入れた"黒"が心の奥底にある冷静さと格闘しているように見えたパフォーマンスだった。激しいのにどこか抑制的、こんなさくまくんに初めて出会った。
私の視界からちらりと見える"白"のラウは、苦しみや憎しみその瞬間の感情が直に伝わってくるほど激しいものだったから、さくまくんの抑制的な面がより伝わってきた気がする。
白の世界と黒の世界は表裏一体にも見えて、別世界にも見える。不思議な空間だ。
黒は光を吸収するけれど、白は光を反射する。
正反対なのに、どこか似ているようにも感じてしまう。
Maybeの物語は終盤を迎える。さくまくんの激しさが増していく。さくまくんといえば消えてしまいそうな儚いイメージがあるのかもしれないが、今回のMaybeはむしろ逆、生き続けようともがいていた。
存在を残すために"黒"は光を探し出す。中盤の抑制的な苦しみからなんとか一筋の光を感じ取れた瞬間だった。
一筋の光は驚くほどに脆い、それでもさくまくんはその光を求め苦しみ、最後は悲しみと憤りと共に椅子を引きずっていたようにも見えた。
全てが終わったとき、私はただただ放心状態だった。常人には表現し難いどうしようもない想いを、さくまくんはいとも簡単に表現する。ダンスはこんなにも人の心を動かすんだ...今まで何度もさくまくんのダンスは観ていたけれど、新鮮に感動してしまった。
あと、さくまくんの表現は余韻に浸ることができ、私たちを思考の世界へと誘ってくれることを実感した。きっとさくまくんが感受性が豊かで複雑な感情を発してくれるから、さくまくんのMaybeは受け手によってさまざまな解釈が生まれるのかな。
歌詞に出てくる「一筋の光」を私はMaybeに感じ取ることができなかった。けれど、同じ日に入った友人は「光がそこにあった」と語った。
こんな解釈の違いも面白いよね。
別日に入ったときは、さくまくんとラウは曲中にジャケットを脱ぎ、白と黒の衣装を交換していた。
黒のさくまくんが白に覆われた瞬間に2人の世界がは溶け合ったように見えた。
その瞬間のMaybeは黒に拐われた白衣装のラウと白に覆われた黒衣装のさくまくんの圧倒的な美しさと、あべふかの透明感のある美しい歌声、全てが芸術だった。
白と黒の融合した世界がそこにある。
あくまで、私の解釈だけど、最初にみたMaybeでさくまくんとラウは一つの事象の表と裏を表現しているのかな〜と思っていた。
ただ、別日に観た際に白と黒を意図的に溶け合わせている表現(ジャケット交換)を見て、本来白の世界と黒の世界は決して交わることのない完全なる別世界なんだと私は解釈した。
さくまくんとラウはそれぞれの世界で「愛しい誰か」を求め苦しんでいる。決して交錯する世界ではないからこそ、お互いの世界に憧れ、彼らは意図的に白と黒の世界を融合しようとし、架空の世界の美しさを私たちに見せる。
一瞬で消えてしまいそうな脆くて儚い架空の世界。
また、2016、2017のMaybeは手話を用いたダンスで、人間らしい温もりを感じていた。手話があることで、さくまくんの苦しみや柔らかい表情全てが"現実のもの"かのように思えた。
けれど、ZEROのMaybeはフリー。フリーのダンスは人間らしい熱や感情が直に伝わるはずだ。それなのに、切なくて苦しくてあまりにもドラマチックだから、どこか別世界の壮大な物語を読んでいるような感覚に陥った。
今までのMaybeとは異なる世界観だった。
Maybeを歌い上げるあべふかの表情はところどころでしか見ることができなかったけれど、静かに喪失感を味わいつつも内に熱を秘めたようなふっかと、絶望に苦しみ、目に光のない中で必死にもがこうとするあべちゃん...この対比こそが真のMaybeの支配者なのかもしれない、と思った。
柔らかい歌声の中に感じる恐ろしいほどの迫力...この2人の世界があるからこそ、さくラウの世界が成り立っている。
歌声、ダンス、ステージ、衣装、全てから愛情執着未練依存といった感情がダイレクトに伝わる苦しみのMaybe
ああ、これが新しいMaybeの幕開けだ
一筋の光は何処にあるのか
そんな不安が過ぎるほどのMaybe
私にはMaybeの世界がこれからも滝沢歌舞伎の中で生き続けるのか、それともZEROで終わるのかわからない。
けれど、ZEROの表現する新たなMaybeが大好きになったし、それと同時に今までのMaybeがたまらなく愛おしい。私の世界がMaybeに拐われたかのような感覚だ。
もう何も言わない、とにかくZEROのMaybeを観てハマった方は、OMG、2016のMaybeも観てみてほしい。
そして解釈を広げてみてほしい。
一人でも多くの方がMaybeの世界にどっぷりとハマってくれるようにそっと願いを込めて。